軍がクーデタで政治対立解決へ動く タクシン派リーダーの身柄を拘束
プラユット・チャンオーチャー陸軍司令官は五月二二日一七時にテレビに登場、同日一六時三〇分に政権を掌握したと発表した。プラユット陸軍司令官は政権掌握の理由について、武器を使った事件の頻発など治安悪化を挙げたほか、経済、社会改革も理由にしている。クーデタ団の名称は「国家平和秩序維持団(カナ・ラクサー・サゴップ・ヘンチャート/コーソーチョー)」で、一九九一年二月のクーデタ団と同じ名称。
軍は五月二〇日に戒厳令を施行し、軍主導での政治対立問題解決に動き出していた矢先だった。二一日には対立する政党、政治グループの代表と選挙委員会、上院の代表を招いて会議を開催。二二日に再度会議を開いたが、双方が従来からの主張を繰り返し、話し合い解決が困難と判断。PDRC、赤シャツ派(UDD)の幹部を含め、会議に出席した内閣、プアタイ党、民主党の代表5人ずつの身柄を拘束した上で政権掌握に踏み切った。
身柄を拘束された政府の5人はポンテープ副首相、チャイカセーム法相、ワラテープ総理府相、ポンサック・エネルギー相、サームサック副教育相。プアタイ党の5人はプームタム幹事長、ウィロート副党首、プロムポン報道官、チューサック法律顧問、ワンムハマド・ノーマター顧問。UDDはプロムパン議長、ティダー前議長、ナタウット事務局長、ウィーラカン元議長、コーケオ前下院議員。一方、民主党の5人はアピシット党首、ジュリン副党首、チューティ幹事長、チャムニ顧問、ニピット顧問。PDRCはステープ事務局長のほか、サーティット・ウォンノントーイ、エカナット・プロムパン、ソムサック・コーサイスック、ソムバット・タムロンタヤウォンの各氏。UDDではティダー前議長の夫であるウェン・トーチラカーン医師もウタヤーン通りの集会場で拘束されている。
出頭命令を出しているのは、ジンラック政権関係者、タクシン元首相の一族、プアタイ党関係者、赤シャツ派の地方幹部、武装闘争の被疑者などで、二四日までに総数190名に上る。陸軍5チャンネルTVのニュースによると、ジンラック前首相やソムチャーイ・ウォンサワット元首相などは二三日昼までに出頭した。ただしクーデタ団は二三日昼過ぎに出頭命令を出した者の出国禁止を発表しており、なお多数が出頭に応じていないもよう。二〇一〇年五月のバンコク騒乱事件後、赤シャツ派幹部の一部はカンボジアなどに逃亡しており、トラート県、プラチンブリ県、スリン県の国境通過ポイント、また東北地方のノンカイ、ムクダハン、ウボンラチャタニ各県のラオス国境でも検問が強化されている。ノンカイとウボンラチャタニの国境ではタイ人の出国、外国人の入国が規制されている。
ソムチャーイ元首相は二一日の段階で、戒厳令施行後にチナワット一族が出国したとの噂を否定、所在地は明かさなかったが、まだ国内にいると語っていた。軍は身柄を拘束した者のうち民主党の5人は二三日未明に解放、プアタイ党の5人のうち3人も解放した。ジンラック前首相など前政権関係者は高齢者を除き、拘束が続いているもよう。
政権掌握に合わせ、軍はバンコク西郊のウタヤーン(アクサ)通りの赤シャツ派の政治集会を制圧。幹部の身柄を拘束するとともに、集会参加者に帰郷を促した。この際、衝突が生じたとの情報が飛び交ったが、抵抗の動きを抑えるため軍が空に向けて発砲しただけで、大きな混乱は生じなかった。ラチャダムヌーン通り、ジェーンワタナ通りのPDRCの集会も強制散会となった。PDRCは元々、軍による政治介入を要求していただけに、今回の軍の動きを歓迎、混乱なく散会している。ジェーンワタナ通りの集会を率いていたプラプッタイサラ僧は身柄を拘束された。
クーデタへの抵抗を警告してきた赤シャツ派の地方部での動きは報道管制により不明だが、一部で衝突が発生している可能性は否定できない。クーデタ団は二三日まで全テレビ局、ラジオ局の通常の番組放送を認めず、報道管制を継続、陸軍テレビ局のニュース報道しか放送させていない(二三日一八時から地上波テレビのニュースなど規制を一部解除)。インターネット社会では暴動の発生などの情報が行きかったが、クーデタ団はこれを否定するとともに、交流サイトなどのサービス提供者に対し、デマ情報が流布しないよう管理強化を強く求めている。
戒厳令を継続して適用
プラユット陸軍司令官は五月二〇日朝6時半、戒厳令の発令を発表した。対象エリアは全国で、同日午前3時から適用した。戒厳令は、治安維持法適用、非常事態宣言を上回る強権を軍当局に付与する。先々週に民主記念塔付近で発生した銃撃、爆撃による集会参加者の死亡事件を受けて、同司令官はあらゆる手段をもって、こうした武器使用や市民同士の血の衝突を防止する考えを示していた。ナコンナヨック県の与党政治家の関係するリゾートで隠匿されていた武器が摘発されるなど、バンコクでの武器闘争準備が発覚するに及んで、このタイミングでの戒厳令に踏み切った。
二二日にクーデタに踏み切った後も、戒厳令を引き続き適用するとの布告が出ている。戒厳令は軍に捜査権、逮捕権など広範囲な権限を与えており、通常はクーデタと同時に発令されるが、今回は戒厳令が先になった。またクーデタ時の戒厳令は事態の収拾が終わればすぐに解除されたが、今回は赤シャツ派の抵抗勢力を抑えるまで解除しない見込み。
軍は二〇日に戒厳令下で設置された治安当局である平和秩序維持司令部(ゴーオー・ローソー)の名で次々に布告、命令を出したが、報道規制などその内容はクーデタ後に出された布告、命令に吸収された形になっている。
中立首相を指名へ
国家平和秩序維持団は二二日、布告第一〇号でプラユット陸軍司令官の首相代行を定めたが、早い時期に中立首相を指名し、内閣を発足させる意向を示している。今回のクーデタでは上院を存続させており、上院に首相を指名させる可能性が高い。上院はクーデタ前の段階で中立首相・内閣の選定に動いており、新首相にはタイ中央銀行総裁のプラサーン・トライラットウォラクン氏、キティポン・キヤラック法務省次官、プラウィット・ウォンスワン元国防大臣の名が浮上していた。このうちキティポン氏は国家改革を目指す「今改革をネットワーク」の代表を務めており、反タクシン派に属している人物。プラウィット陸軍大将も、民主党政権時に国防大臣だった。キティポン氏は二二日、フェースブックで自身が首相候補として名が挙がっていることについて、噂に過ぎないと述べている。
今後のプロセスとしては、首相指名、国王認証後に組閣、新政府のもとでの国家改革の協議と骨子作り、新憲法起草、総選挙実施と進んでいくことが考えられる。また憲法については、クーデタ団は当初、二〇〇七年憲法の一時停止と発表していたが、その後に廃止としている。このため二〇〇七年憲法を再度使用するか、その主な内容は残しつつ新憲法として起草するか2通りが考えられる。国家改革案の作成と新憲法起草を一つのプロセスとして進める可能性もある。
一方、プラユット陸軍司令官は二三日の官僚、国営企業幹部を集めた会議で、懸案となっている籾米担保貸付金の支払いを早急に実施する方針を伝えた。2週間程度で支払うとしている。また布告第二二号で官公庁、各種政府機関の監督構造について規定。軍幹部が行政府を抑える仕組みを整えた。
米国務長官がクーデタを非難
米国のケリー国務長官は二二日、タイのクーデタについて非難する声明を出した。クーデタは正当化できず、身柄を拘束された者の解放、報道規制の解除、早期の選挙と民選政府の発足を要求した。タイ米関係についてはネガティブな影響が避けられないとして、軍事援助、協力事業などの凍結を示唆した。米国は九一年、〇六年のクーデタ時にも、民選政府が発足するまで軍事援助・交流を一部凍結している。
●クーデタ団の布告内容[要旨] *12面の法律欄参照
[第1号]三軍司令官、警察庁長官からなる国家平和秩序維持団によって、5月22日16時30分をもって政権を掌握。通常通りの生活・業務の要請。無許可での武器持出禁止。在タイ外国人の保護、外交関係の維持。
[第2号]5月22日16時30分より戒厳令を全土に施行する。
[第3号]全土で22日から、22時~05時の夜間外出禁止令。
[第4号]ラジオ局、テレビ局の通常の放送を中止し、陸軍テレビ局の報道を放送する。
[捕捉説明]政治集会参加者は当局が用意したバス等で帰郷するように。
[第5号]①憲法の一時的施行停止(国王の部分を除く)②現内閣の退任③上院の継続④裁判所の継続⑤独立機関の継続
[第6号]国家平和秩序維持団の団長、副団長、事務局長の任命。
[第7号]5人以上の政治集会禁止
[第8号]夜間外出禁止令の対象外①出入国者②工場、病院、航空事業などの深夜勤務者③運送関係者④病人、人道活動者⑤許可を得た者
[第9号]教育施設は5月23~25日、臨時休校。
[第10号]プラユット陸軍司令官が首相代行に。
[第11号]①第2条(国王規定)を除き憲法を廃止②内閣退任③上院存続④裁判所機能継続⑤独立機関継続(布告第5号を廃止)
[第12号]オンライン社会メディアの経営者、関係者に言論の統制で協力要請。
[第13号]局長級以上、独立機関の代表、県知事、工業連盟、銀行協会、商工会議所の代表を集め5月23日13時30分に会議。
[第14号]①マスメディアが社会混乱を生み出すような意見を表明させることを禁止。②集会、軍への反対行動を阻止。
[第15号]偏向テレビ局14局、無許可コミュニティ・ラジオ局の放送禁止。
[第16号]省次官が大臣代行に。
[第17号]全インターネット・サービス提供者に①国家安全保障、公序良俗に反する情報の公開阻止と23日10時30分に国家通信放送委員会本部に出頭するよう命令。
[第18号]以下の形態の情報の流布を禁止。①国王、王族への不敬、虚偽②国家安全保障に危険、他者の名誉毀損③クーデタ団への批判、非難④公務上の秘密⑤混乱、対立の煽動⑥クーデタ団への反対行動呼びかけ⑦民衆に恐怖を与える内容の情報。
[第19号]追加出頭命令。局長級以上の官公庁及び国営企業幹部は、陸軍クラブに23日13時30分に出頭。
[第20号]外交団、国際機関代表、駐在武官に対する説明会。23日16時、陸軍クラブ。
[第21号]出頭命令に応じない者に対して出国禁止措置。
●命令
[第1号]ニワットタムロン首相代行ほか合計18人の前閣僚に対し出頭命令。
[第2号]23人への追加出頭命令。ジンラック前首相、ソムチャーイ元首相、チャイシット元陸軍司令官などタクシン元首相の親族、前政権関係者。
[第3号]114人に追加出頭命令。
[第4号]35人に追加出頭命令。
●先週の動き
5月20日
06時 プラユット陸軍司令官が同日03時からの戒厳令を布告。
09時 PDRCがデモ行進を中止。
10時 ニワットタムロン首相代行が臨時閣議召集。
14時 軍が高級官僚、国営企業幹部を招集。
15時 PDRCが総理府本部明け渡し。
15時30分 プラユット陸軍司令官が話し合い解決を表明。
5月21日
14時 対立両派との会議。
5月22日
14時 第2回会議。
14時半 タクシン氏が軍説得を拒否。
16時半 陸軍司令官が政権掌握。会議参加者の身柄を拘束。
17時 政権掌握を発表。
17時半 夜間外出禁止令
5月23日
01時 拘束した民主党5人とプアタイ党3人を解放。
10時-12時 ジンラック前首相、ニワットタムロン前首相代行が出頭
18時 地上波TV局の放送再開
●今回の政治対立の推移
2013年
10月9日 国会周辺に治安維持法適用。
10月14日 反タクシン派が恩赦令反対で総理府前で集会。
10月31日 民主党が恩赦令反対集会。
11月1日 下院議会が恩赦令案を承認。バンコク各地で反対集会。
11月7日 政府が恩赦令制定断念。
11月11日 上院議会が恩赦令案を否決。
11月25日 治安維持法適用エリアを首都圏に拡大。
12月9日 ジンラック首相が下院解散。
2014年
1月13日 PDRCが「バンコク封鎖」。
1月21日 首都圏に非常事態宣言。
2月2日 総選挙実施。
2月22日 爆弾テロで子供4人死亡。
3月2日 PDRCが集会地をルンピニ公園に統合。
4月21日 憲法裁が総選挙無効判決。
5月7日 憲法裁が首相失職判決。
5月9日 上院が議長選出、中立首相指名に動く。
5月20日 軍が戒厳令。
5月21日 軍が対立両派を召集。
5月22日 軍がクーデタ。
日付 : 2014年05月26日
By : 週刊タイ経済
軍は五月二〇日に戒厳令を施行し、軍主導での政治対立問題解決に動き出していた矢先だった。二一日には対立する政党、政治グループの代表と選挙委員会、上院の代表を招いて会議を開催。二二日に再度会議を開いたが、双方が従来からの主張を繰り返し、話し合い解決が困難と判断。PDRC、赤シャツ派(UDD)の幹部を含め、会議に出席した内閣、プアタイ党、民主党の代表5人ずつの身柄を拘束した上で政権掌握に踏み切った。
身柄を拘束された政府の5人はポンテープ副首相、チャイカセーム法相、ワラテープ総理府相、ポンサック・エネルギー相、サームサック副教育相。プアタイ党の5人はプームタム幹事長、ウィロート副党首、プロムポン報道官、チューサック法律顧問、ワンムハマド・ノーマター顧問。UDDはプロムパン議長、ティダー前議長、ナタウット事務局長、ウィーラカン元議長、コーケオ前下院議員。一方、民主党の5人はアピシット党首、ジュリン副党首、チューティ幹事長、チャムニ顧問、ニピット顧問。PDRCはステープ事務局長のほか、サーティット・ウォンノントーイ、エカナット・プロムパン、ソムサック・コーサイスック、ソムバット・タムロンタヤウォンの各氏。UDDではティダー前議長の夫であるウェン・トーチラカーン医師もウタヤーン通りの集会場で拘束されている。
出頭命令を出しているのは、ジンラック政権関係者、タクシン元首相の一族、プアタイ党関係者、赤シャツ派の地方幹部、武装闘争の被疑者などで、二四日までに総数190名に上る。陸軍5チャンネルTVのニュースによると、ジンラック前首相やソムチャーイ・ウォンサワット元首相などは二三日昼までに出頭した。ただしクーデタ団は二三日昼過ぎに出頭命令を出した者の出国禁止を発表しており、なお多数が出頭に応じていないもよう。二〇一〇年五月のバンコク騒乱事件後、赤シャツ派幹部の一部はカンボジアなどに逃亡しており、トラート県、プラチンブリ県、スリン県の国境通過ポイント、また東北地方のノンカイ、ムクダハン、ウボンラチャタニ各県のラオス国境でも検問が強化されている。ノンカイとウボンラチャタニの国境ではタイ人の出国、外国人の入国が規制されている。
ソムチャーイ元首相は二一日の段階で、戒厳令施行後にチナワット一族が出国したとの噂を否定、所在地は明かさなかったが、まだ国内にいると語っていた。軍は身柄を拘束した者のうち民主党の5人は二三日未明に解放、プアタイ党の5人のうち3人も解放した。ジンラック前首相など前政権関係者は高齢者を除き、拘束が続いているもよう。
政権掌握に合わせ、軍はバンコク西郊のウタヤーン(アクサ)通りの赤シャツ派の政治集会を制圧。幹部の身柄を拘束するとともに、集会参加者に帰郷を促した。この際、衝突が生じたとの情報が飛び交ったが、抵抗の動きを抑えるため軍が空に向けて発砲しただけで、大きな混乱は生じなかった。ラチャダムヌーン通り、ジェーンワタナ通りのPDRCの集会も強制散会となった。PDRCは元々、軍による政治介入を要求していただけに、今回の軍の動きを歓迎、混乱なく散会している。ジェーンワタナ通りの集会を率いていたプラプッタイサラ僧は身柄を拘束された。
クーデタへの抵抗を警告してきた赤シャツ派の地方部での動きは報道管制により不明だが、一部で衝突が発生している可能性は否定できない。クーデタ団は二三日まで全テレビ局、ラジオ局の通常の番組放送を認めず、報道管制を継続、陸軍テレビ局のニュース報道しか放送させていない(二三日一八時から地上波テレビのニュースなど規制を一部解除)。インターネット社会では暴動の発生などの情報が行きかったが、クーデタ団はこれを否定するとともに、交流サイトなどのサービス提供者に対し、デマ情報が流布しないよう管理強化を強く求めている。
戒厳令を継続して適用
プラユット陸軍司令官は五月二〇日朝6時半、戒厳令の発令を発表した。対象エリアは全国で、同日午前3時から適用した。戒厳令は、治安維持法適用、非常事態宣言を上回る強権を軍当局に付与する。先々週に民主記念塔付近で発生した銃撃、爆撃による集会参加者の死亡事件を受けて、同司令官はあらゆる手段をもって、こうした武器使用や市民同士の血の衝突を防止する考えを示していた。ナコンナヨック県の与党政治家の関係するリゾートで隠匿されていた武器が摘発されるなど、バンコクでの武器闘争準備が発覚するに及んで、このタイミングでの戒厳令に踏み切った。
二二日にクーデタに踏み切った後も、戒厳令を引き続き適用するとの布告が出ている。戒厳令は軍に捜査権、逮捕権など広範囲な権限を与えており、通常はクーデタと同時に発令されるが、今回は戒厳令が先になった。またクーデタ時の戒厳令は事態の収拾が終わればすぐに解除されたが、今回は赤シャツ派の抵抗勢力を抑えるまで解除しない見込み。
軍は二〇日に戒厳令下で設置された治安当局である平和秩序維持司令部(ゴーオー・ローソー)の名で次々に布告、命令を出したが、報道規制などその内容はクーデタ後に出された布告、命令に吸収された形になっている。
中立首相を指名へ
国家平和秩序維持団は二二日、布告第一〇号でプラユット陸軍司令官の首相代行を定めたが、早い時期に中立首相を指名し、内閣を発足させる意向を示している。今回のクーデタでは上院を存続させており、上院に首相を指名させる可能性が高い。上院はクーデタ前の段階で中立首相・内閣の選定に動いており、新首相にはタイ中央銀行総裁のプラサーン・トライラットウォラクン氏、キティポン・キヤラック法務省次官、プラウィット・ウォンスワン元国防大臣の名が浮上していた。このうちキティポン氏は国家改革を目指す「今改革をネットワーク」の代表を務めており、反タクシン派に属している人物。プラウィット陸軍大将も、民主党政権時に国防大臣だった。キティポン氏は二二日、フェースブックで自身が首相候補として名が挙がっていることについて、噂に過ぎないと述べている。
今後のプロセスとしては、首相指名、国王認証後に組閣、新政府のもとでの国家改革の協議と骨子作り、新憲法起草、総選挙実施と進んでいくことが考えられる。また憲法については、クーデタ団は当初、二〇〇七年憲法の一時停止と発表していたが、その後に廃止としている。このため二〇〇七年憲法を再度使用するか、その主な内容は残しつつ新憲法として起草するか2通りが考えられる。国家改革案の作成と新憲法起草を一つのプロセスとして進める可能性もある。
一方、プラユット陸軍司令官は二三日の官僚、国営企業幹部を集めた会議で、懸案となっている籾米担保貸付金の支払いを早急に実施する方針を伝えた。2週間程度で支払うとしている。また布告第二二号で官公庁、各種政府機関の監督構造について規定。軍幹部が行政府を抑える仕組みを整えた。
米国務長官がクーデタを非難
米国のケリー国務長官は二二日、タイのクーデタについて非難する声明を出した。クーデタは正当化できず、身柄を拘束された者の解放、報道規制の解除、早期の選挙と民選政府の発足を要求した。タイ米関係についてはネガティブな影響が避けられないとして、軍事援助、協力事業などの凍結を示唆した。米国は九一年、〇六年のクーデタ時にも、民選政府が発足するまで軍事援助・交流を一部凍結している。
●クーデタ団の布告内容[要旨] *12面の法律欄参照
[第1号]三軍司令官、警察庁長官からなる国家平和秩序維持団によって、5月22日16時30分をもって政権を掌握。通常通りの生活・業務の要請。無許可での武器持出禁止。在タイ外国人の保護、外交関係の維持。
[第2号]5月22日16時30分より戒厳令を全土に施行する。
[第3号]全土で22日から、22時~05時の夜間外出禁止令。
[第4号]ラジオ局、テレビ局の通常の放送を中止し、陸軍テレビ局の報道を放送する。
[捕捉説明]政治集会参加者は当局が用意したバス等で帰郷するように。
[第5号]①憲法の一時的施行停止(国王の部分を除く)②現内閣の退任③上院の継続④裁判所の継続⑤独立機関の継続
[第6号]国家平和秩序維持団の団長、副団長、事務局長の任命。
[第7号]5人以上の政治集会禁止
[第8号]夜間外出禁止令の対象外①出入国者②工場、病院、航空事業などの深夜勤務者③運送関係者④病人、人道活動者⑤許可を得た者
[第9号]教育施設は5月23~25日、臨時休校。
[第10号]プラユット陸軍司令官が首相代行に。
[第11号]①第2条(国王規定)を除き憲法を廃止②内閣退任③上院存続④裁判所機能継続⑤独立機関継続(布告第5号を廃止)
[第12号]オンライン社会メディアの経営者、関係者に言論の統制で協力要請。
[第13号]局長級以上、独立機関の代表、県知事、工業連盟、銀行協会、商工会議所の代表を集め5月23日13時30分に会議。
[第14号]①マスメディアが社会混乱を生み出すような意見を表明させることを禁止。②集会、軍への反対行動を阻止。
[第15号]偏向テレビ局14局、無許可コミュニティ・ラジオ局の放送禁止。
[第16号]省次官が大臣代行に。
[第17号]全インターネット・サービス提供者に①国家安全保障、公序良俗に反する情報の公開阻止と23日10時30分に国家通信放送委員会本部に出頭するよう命令。
[第18号]以下の形態の情報の流布を禁止。①国王、王族への不敬、虚偽②国家安全保障に危険、他者の名誉毀損③クーデタ団への批判、非難④公務上の秘密⑤混乱、対立の煽動⑥クーデタ団への反対行動呼びかけ⑦民衆に恐怖を与える内容の情報。
[第19号]追加出頭命令。局長級以上の官公庁及び国営企業幹部は、陸軍クラブに23日13時30分に出頭。
[第20号]外交団、国際機関代表、駐在武官に対する説明会。23日16時、陸軍クラブ。
[第21号]出頭命令に応じない者に対して出国禁止措置。
●命令
[第1号]ニワットタムロン首相代行ほか合計18人の前閣僚に対し出頭命令。
[第2号]23人への追加出頭命令。ジンラック前首相、ソムチャーイ元首相、チャイシット元陸軍司令官などタクシン元首相の親族、前政権関係者。
[第3号]114人に追加出頭命令。
[第4号]35人に追加出頭命令。
●先週の動き
5月20日
06時 プラユット陸軍司令官が同日03時からの戒厳令を布告。
09時 PDRCがデモ行進を中止。
10時 ニワットタムロン首相代行が臨時閣議召集。
14時 軍が高級官僚、国営企業幹部を招集。
15時 PDRCが総理府本部明け渡し。
15時30分 プラユット陸軍司令官が話し合い解決を表明。
5月21日
14時 対立両派との会議。
5月22日
14時 第2回会議。
14時半 タクシン氏が軍説得を拒否。
16時半 陸軍司令官が政権掌握。会議参加者の身柄を拘束。
17時 政権掌握を発表。
17時半 夜間外出禁止令
5月23日
01時 拘束した民主党5人とプアタイ党3人を解放。
10時-12時 ジンラック前首相、ニワットタムロン前首相代行が出頭
18時 地上波TV局の放送再開
●今回の政治対立の推移
2013年
10月9日 国会周辺に治安維持法適用。
10月14日 反タクシン派が恩赦令反対で総理府前で集会。
10月31日 民主党が恩赦令反対集会。
11月1日 下院議会が恩赦令案を承認。バンコク各地で反対集会。
11月7日 政府が恩赦令制定断念。
11月11日 上院議会が恩赦令案を否決。
11月25日 治安維持法適用エリアを首都圏に拡大。
12月9日 ジンラック首相が下院解散。
2014年
1月13日 PDRCが「バンコク封鎖」。
1月21日 首都圏に非常事態宣言。
2月2日 総選挙実施。
2月22日 爆弾テロで子供4人死亡。
3月2日 PDRCが集会地をルンピニ公園に統合。
4月21日 憲法裁が総選挙無効判決。
5月7日 憲法裁が首相失職判決。
5月9日 上院が議長選出、中立首相指名に動く。
5月20日 軍が戒厳令。
5月21日 軍が対立両派を召集。
5月22日 軍がクーデタ。
日付 : 2014年05月26日
By : 週刊タイ経済