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 タイは立憲君主制であることから、タイ国王の権限は日本ほどではないが制限されたものになっている。しかしながら、国の象徴としての位置は揺るぎがたいものがあり、国民の信頼は厚い。実際の国政の最高責任者は総理大臣である。総理大臣は日本と同じく、一番勢力のある党が中心となった連立政権によって成り立つ。

 1932年に立憲革命が行われたタイでは、翌年にプラヤー・パホンやピブーン・ソンクラームによる軍閥派のクーデターが起こり、早くも軍事独裁の傾向を見せ始めた。第二次世界大戦後、1955年からピブーンは民主政治に積極的な態度を見せ始め、全部で 30 党の政治団体が誕生した。その後、数種の政権を経て、サリット・タナラット総理大臣が民主主義を否定したため、1958年に全党が解散した。また、プリーディー・パノムヨン、クワン・アパイウォンなどの文民が台頭し、文民政権が誕生するが、ラーマ 8 世が亡くなったのをきっかけにその支持率は低下、再び軍事政権が盛り返した。1968年に、タノーム・キッティカチョーンはサリット政権に対し革命を起こし、再び民主政治を導入した、しかしタノームは議会政治に嫌気がさし、1971年の国会に対して革命を起こし、政党を非合法化し、再び民主主義は行き詰まった。1973年にはタノーム総理大臣が非武装の反対派学生のデモを鎮圧し、多数の死者を出したため(「血の日曜日事件」と呼ばれる)、ククリット・プラモートなどの文民政権が誕生するが、1976年に早くも崩壊。軍事政権は、1991年にスチンダー政権が市民の抗議を受けるまで続いたが、その後は中流階級が台頭し、民主主義に逆行する現象は起きていない。

 タイの戦後政治史は、軍出身指導者の間に、新興財閥を母体とする財界人がところどころ間に入って総理大臣になった、という流れになっている。なぜなら、組織された唯一の集団として、政治的な強みを常に発揮してきた軍に対して、財界人は弱い政治的権力しか持てなかったからである。だが、1990年以降、東南アジア経済の発展を背景に、財界人が急速に力をつけると共に、次第に政治的権力をつけて、軍が政治舞台に登場する機会を奪い取ろうとしている。その典型的な例が、IT 界の第一人者、タイ愛国党出身のタクシン・チナワット首相である。

 タイの国会は上下二院制の議会制民主主義をとっている。国会は 500 議席からなる人民代表院(下院議員とも、民選)と、200 議席からなる上院議員からなる。人民代表院の任期は 4 年で、上院議員は 6 年である。総理大臣は人民代表院から選出され、上院議員には法律の発案権はない。

 タイの司法制度は、慣習法に基づいた国内法を元に成り立っているといわれる。また、伝統的な法と欧米型の法とのミックスでもある。法廷は憲法の制限を受けてはいるが、憲法裁判所が最高法廷である。裁判所は、1997年制定の新憲法に基づいて、通常の民事・刑事訴訟を担当する司法裁判所、憲法問題を担当する憲法裁判所、行政事件訴訟を担当する行政裁判所、軍に関する訴訟を担当する軍事裁判所が設置されている。このうち司法裁判所は、第一審裁判所、控訴裁判所及び最高裁判所の三審制をとっている。タイ南部三県を中心とする地域では、イスラム教徒間のみにおいて、イスラム法による民事裁判が行なわれている。

参考
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